「アドバイス」が持つ魅力に依存していないだろうか。
1. そのアドバイスは、必要か?
アドバイスが持つ魅力
アドバイスをすることは気持ちがいい。
アドバイスというのは、自分が相手の考えを訂正する行為である。
これは能力の差に関わらずに行うことができる。
相手が先生で、自分が生徒であったとして、先生が生徒である私にアドバイスを行うことはもちろん、反対に、生徒である私が先生に対してアドバイスをすることだって可能だ。
ここで、自分が相手の考えを訂正する、つまり、一時的にその考えについて自分の方が優秀な考えを持っていると錯覚することがある。
しかし、私は、基本的にこの世の全ての物にはそれが考えられた・決定された「理由」があると思う。
アドバイスをする前にはその「理由」が感情的なモノなのか、理性的なモノなのかを考慮する必要があると私は考える。
「理由」を考える
イマイチ分かりづらいかもしれない。例を示す。
私はエンジニアなので、プログラムのソースコードレビューをすることがある。
例えば、相手が提出してきたソースコードを見たとき、自分であればより簡潔に、より速く処理を終わらせることができるようなソースコードを思いついたとする。
きっと、私は相手より良いコードを思いついたので、アドバイスをしたくなるだろう。
ここで、すぐに「この実装は複雑で、処理も煩雑なので、ここをこのように効率化すると良いですよ。」とアドバイスすることは簡単だ。
しかし、自分がコードレビューを依頼した側であった場合に私はどう思うだろうか。
きっと、「こういう理由があってこの実装にしたんだけどな。」と少しは考えることだろう。
この「理由」が大切なのだ。
「参考にしたサイトで書いていた処理をコピペするだけで実装が可能だったため、時短のためにコピペをした」のであれば、アドバイスは素直に受けるべきだろう(当然、相手のアドバイスが真に要件に従っているか議論をする必要はある)。
→この場合、アドバイスを受けた側は、素直にコードを修正して再度レビュー依頼を行えば良い。
「他の環境で利用されているコードを参考に書いたため、コードの一貫性を保つために現在の書き方を採用した」のであれば、今後のコードの保守性も考えると、実際には複雑な処理を書いていたとしても、可読性の面では、統一した方がいいこともあるだろう。
→この場合、「いや、私はこういう理由でこの書き方を採用したんですけど、どう思いますか。」というやりとりが発生するだろう。このとき、アドバイスのされ方や、人によっては少しイラっとして返答をすることもあるかもしれない。
つまり、アドバイスの仕方によっては、相手を「イラつかせてしまう可能性」があるのだ。
そしてそれは、「それを決めた・考えた理由」に起因すると私は考えている。
そのため、アドバイスをする前には理由を知るというステップを、必ず踏むべきだと思う。
先ほどの、アドバイスの例を再度示そう。
「この実装は複雑で、処理も煩雑なので、ここをこのように効率化すると良いですよ。」
これに、ワンクッション、そう考えた理由を聞くステップを追加するとどうなるだろうか。
「この実装は一見複雑で、処理も煩雑に見えますが、このように実装をしている理由はありますか?もし、参考にしたサイトやコードがあれば教えてください。」
どうだろうか。
返答に応じて、アドバイスをする、しないを決めることができるようになった。
実装の際に考えた理由を相手に聞くことにより、自分のアドバイスが、相手にとって本当に必要だったかが分かるようになったとは感じないだろうか。
これにより、「アドバイスをしたい自分」や、「アドバイスをされたことによるイライラ」を、いきなり発生させることなく、相手とのコミュニケーションのファーストステップから感情を排すことができた。
長くなったが、こういうことを私は、常日頃意識するように努めている。
2. Xにおける、昨今のアドバイスの性質について
昨今、政治批判をするツイート(ポスト)をよく見かける(これは、私が多少政治に対して興味があり、そういったツイートの詳細やリプ欄を確認することがあるために、"おすすめツイート"として流れてくることも影響しているかもしれないが)
2024/01/04に、日本が台湾など、諸外国からの能登半島地震の支援申し出を断ったことが公表された。
各国からの支援の申し出についてです。
— 岸田文雄 (@kishida230) 2024年1月4日
地震発生直後から現時点まで、米国、その他のG7諸国、中国、台湾を含め、世界各地の数十の国・地域や団体、個人から多数のお見舞いのメッセージ、また支援の申し出を受けています。
まず、これらの申し出には心から感謝を申し上げます。
そのことに対して、「日本は台湾の支援を断った」として、「なぜ断るんだ、今は猫の手でも借りたい状況じゃないのか」「台湾との関係性が悪くするぞ」など、色々なアドバイス(批判)が殺到した。
その後、台湾から、『「台湾を断った」との言い方は、台日間の調整の事実とは合致せず、公平性を欠いている』という声明が出された。
実際、岸田総理からも『受け入れ態勢の構築のために要する作業や、現地の状況などを鑑みて、現時点では人的・物的支援については、一律で受け入れていないという状況にある』ことは説明されている。
一方、支援の申し出については、その受け入れ体制構築のために要する作業や現地の状況などを鑑みて、現時点では人的・物的支援については、一律で受け入れていないという状況にあります。
— 岸田文雄 (@kishida230) 2024年1月4日
同時に、現地体制の構築や負担を要しない支援についてはありがたく受け入れております。
これはあくまで一例だが、「理由を知る」というワンクッションを挟まずに、他人に意見することは簡単だが、それによって誰かに余計な手間をかけさせたり、混乱を招くこともあることが良く分かる事例だ。
このようなことは、本当によく散見される。
しかし、SNSでは「理由」を知ったことによりアドバイスが不要だと分かり、静観するような人は、基本表に出てこない。静観する人はツイートをする必要がないからだ。
これこそが、SNSに陰謀論者が多く、まともな人が少ないと感じる大きな要因の一つだと考えている。
陰謀論者の意見ばかり目にすると、どうしてもその考えに流されてしまう人が出てくる。そうして、反ワクチンや反コロナ、行きすぎた環境活動家などがドンドン生まれてしまうのだろう。
非常に残念なSNSの性質だと私は思う。
3. まとめ
ここまで、アドバイスの魅力と理由を知ることの大切さについて書いてきました。
長々と、最後まで読んでくれた方に感謝の意を表します。
このようなこと、言わずとも分かっているという人が大半だとは思いますが、昨今のSNSを見ていると不安に駆られてしまい、勢いに任せてこのような記事を書いてしまいました。
この記事によって、少しでも、誰かにアドバイスをしたいと思っても、その前に「物事の理由」を知るワンステップを挟むことで、本当にそのアドバイスが必要なのかを少し立ち止まって考えることができることができる人が増えてくれたら嬉しいな、と一縷の望みをかけて、筆を置かせていただきます。
あ、新年の挨拶を失念しておりました。
明けましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。